北星社
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はりま─相生事件を追う─
はりま─相生事件を追う─
四六判上製本256頁
[本体価格2300円+税]
ISBN 978-4-939145-11-7
C0095

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目 次

はじめに
序章  中国人強制連行の実態
第一節 文献資料からその謎に迫る

  1. 一九四二(昭和十七)年十一月二十七日の閣議決定
  2. 『外務省報告書』によって「華人労務者内地移入」の実態を追う
  3. 華北の中国人が労務者にされた経緯
  4. 日本政府の各事業所にたいする戦後補償について
第二節 播磨造船所における華人労務者の移入とその推移
  1. 播磨造船所の誕生
  2. 華人労務者移入の実態
  3. 終戦後の華人労務者
  4. 華人労務者就労の成果およびその影響(『会社報告書』による)
第一章 取材ノートⅠ
  1. 事件取材へ
  2. 事件現場の皆勤橋から
  3. 当時の現場主任と会う
  4. 慰霊祭の寺をさがす
  5. ふたたび慰霊祭の寺へ
  6. 鶴岡良吉と「あけぼの会」の怪
  7. 在日韓国・朝鮮人にみちびかれて
  8. 華北取材の窓口へ
  9. テレビ放映
第二章 取材ノートⅡ
  1. 取材を再開する前に
  2. 資料で「オンナ」の手がかりをさがす
  3. 「(華労)不法行為調書 終戦后ノ紛争事件調書」再点検
  4. 「オンナ」さがしへ
  5. 「オンナ」への迷路
  6. 「対華労不法行為調書」を読みなおす
  7. F元巡査の証言
  8. 事件当夜を地図でたどる
  9. 木村一吉調査員の報告について
  10. この章のおわりに
第三章 中国取材の旅
  1. 天津へ
  2. 天津革命烈士記念館で
  3. 天津図書館で
  4. 天津監獄をさがして
  5. 王玉明の住所付近
  6. 河北省薊県へ
  7. 白志清の面影をもとめて

終章 皆勤橋が消えた日
あとがき

 

書 評

「銃後の少女」が戦後、単身挑み続けた執念が、
静かな訴えとして響いてくる

中国人労働者3人が惨殺された事件の真相を究明した軌跡

安井三吉

アジア・太平洋戦争時期、日本政府と一部の企業は、戦争遂行のために、徴兵による莫大な労働力不足の補充と生産力増強のために、女性、学生、受刑者の動員を進めるとともに、朝鮮人、中国人さらには連合国軍捕虜を連行して生産の現場に投入した。そのうち中国人については、一九四三年から四五年にかけて、およそ四万人を強制連行して、日本全国の鉱山、港湾、土木建設、造船など一三五の事業場に配置し、苛酷な条件の下で労働させた。その結果、七〇〇〇人に近い、約一八パーセントに及ぶ人々が死に追いやられた。

姫路在住のこちまさこ(古知正子)氏が本書で取り上げた兵庫県相生市の播磨造船所日ノ浦工場はそのような事業所の一つである。この造船所に連行され、強制労働に従事させられた中国人労働者は四九〇人で、死者は二八人にものぼった。死者の中でこち氏が特に注目したのが、死因に「変死」と記された高貴有、姜福春、王玉明ら三人と職歴に小学校長と記された白志清という人物である。

「変死」と記されていたのは、戦争終結後の九月一三日に、対岸の造船所への往来のために造られた「皆勤橋」の上で、同じく造船所で働いていた刑余者組織「造船報国隊」の二人の隊員によって日本刀と鳶口によって惨殺された人々である。このような事件は全国的にも稀なケースであり、こち氏の関心を引いた。

こち氏は、戦争直後、外務省が来日予定の中国代表団に対する説明に備えて全国の事業所に指示し作成させた報告書の一つ、播磨造船所日ノ浦工場『華人労務者就労鬘囑抹随早x(一九四六年)や『兵庫県殉難中国人慰霊と殉難詳報』(一九五七年)などの文献資料を渉猟するとともに、造船所の関係者、工場付近の住民、警察官、周辺のお寺などへの精力的な聞き取りを重ねることによって、事件の真相追究に取り組んだ。こち氏の関心は、「なぜ」という点にあった。戦後、「解放」された中国人労働者たちが賃金や物資支給の問題をめぐって全国でさまざまな「紛争」を起こしていたが、相生でも同様であった。こち氏は、こうした事態に対処するために、造船所、警察、刑余者『三位一体』の思惑の一致したところに起こされたのが中国人労働者三人の殺害、「相生事件」なのではないかとみる。とはいうものの、この点については、本書が確固とした証拠にたどり着いたというわけではなく、最後は一定の推測によらざるをえなかった。事件からすでに半世紀以上も経過し、二人の犯人を裁いた裁判の記録は廃棄され、会社や警察の関係者の口も重かったからだ。

皆勤橋のうえで殺害された三人は、いずれも天津出身者で、三人とも殺害された後、海に投げ棄てられた。高貴有と姜福春の二人は遺体として引きあげられ、近くの寺に埋葬されたが、王玉明は海の藻屑となった。遺骨と遺品(王のは遺品のみ)は、一九五七年に地元華僑や日中友好団体の人々によって掘り起こされ、神戸での慰霊祭を経て天津に戻された。こち氏は、自ら天津に赴き、革命烈士記念館を訪ねて遺骨の安置を確認し、さらにもう一人の犠牲者小学校長白志清の故郷、河北省薊県を訪ね、遺族に会う。

本書は、こうした真相究明の過程を詳細に綴ったものだが、私にとっての関心は、「相生事件」そのものとともにこのような戦争の問題に、単身挑み続けるこち氏の執念ともいいうる持続性である。一九二五年生まれの氏はすでに八〇を越える。この問題に取り組み始めたのは七三年のことだというから三〇年以上に及ぶ。三七年一二月、日本軍の南京攻略の「祝賀」提灯行列に参加し、「胸がふるえ涙が流れた」という「銃後の少女」であったことへの屈折した思い、さらには六六年以来の度々の訪中の印象など、戦中戦後を生きてきた自身の歴史への見つめ直しと相生事件の真相究明の軌跡とが重ねられて、読むものに静かな訴えとして響いてくる。

こち氏は、本書と同時期に、満洲開拓団の一つ、佳木斯の七虎力(しちこりき)開拓団の団員で「生き残った母親」たちの「修羅の世界」に関する証言と彼女たちの「第二の故郷」訪問記からなる『一九四五年夏 満州 七虎力の惨劇』(北星社刊)を出されている。これも一九六八年以来の取材のまとめという。あわせ読まれることをお勧めしたい。

  (神戸大学名誉教授/神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会代表)

図書新聞2892号(2008年11月1日)より

 

著 者 略 歴

こち まさこ

1925年 兵庫県加東郡(現・加東市)社町に生まれる
1947年 医師・古知貞と結婚
1949年 兵庫県神崎郡の無医村へ 主婦として農山村の生活を体験する
その頃、作家・住井すゑと出会う
1954年 夫の開業により姫路に居を移す
1963年 ラジオ関西「兵庫あちこち」の台本取材で県下をまわる
1965年 日中友好医師視察団に同行
以降、日本敗戦直後史と女性史の取材・研究を始める
1967年 神戸新聞に「兵庫女風土記」を連載
元満蒙開拓団の主婦と出会い取材
1971年 毎日・読売・神戸新聞にエッセイを連載
1992年 姫路獨協大学女性学非常勤講師(~1999)
1993年 播磨学研究所「姫路戦後地図をつくる会」を結成し、空襲前後の姫路市街図と聞き書き、上・下二冊を出版
1995年 『姫路医師会史』編纂に従事(~1999)
2008年 第30回姫路市芸術文化賞受賞